- シャフィック・ウル・ラフマン/Shafiq-ur-REHMAN(パキスタン/肢体障害)
マイルストーン障害者協会 代表
- ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業3期生
- シャフィック/みなさん、こんにちは。シャフィク・ウル・ラフマンと申します。出身はパキスタンです。私は1977年、生後6か月の時、ポリオにかかりました。母は重い装具をつけた私を抱え、よい病院や理学療法士を探し回りました。罰を受けているような幼少期でした。私の育て方を母に指導できる病院も理学療法センターも存在しなかったので、私に障害があるのは、両親が何か間違いを犯したからだと考えた親戚や近所の人など、多くの人から両親は差別を受けました。これは世界中どこでもよくある話です。どの社会も障害に対する扱いは同じです。話は同じですが人種によって肌の色は異なります。
- このように10歳までの私は患者のようでした。普通ではなく特殊な子どもだと思われていました。両親は障害者が集って勉強している特別支援学校を見つけました。その学校に8年間通い、初等教育を受けました。その学校で仲間に出会い、1992年か1993年に、私たちは団体を作ることにしました。14歳から16歳の障害児が立ち上げた世界初の団体だったかもしれません。後に、このロマンチックな話からパキスタンの障害者運動が始まります。私たちはパキスタン初のクロスディスアビリティの(障害種別を限定しない)団体でした。障害者は何も断念すべきではない、夢をあきらめる必要はない、自分たちの権利のために闘うべきだ、と仲間のモチベーションを高めようとしてきました。ですが、その頃の私たちは、権利の意味、権利とは何かということを理解していませんでした。14歳という年齢では情報も知識も教育も限られていましたので、私たちは何となくしか分かっていませんでした。ですが、そのぼんやりとした影から、現実を知りたい、違いを理解したい、生活上の問題の解決策を見つけたい、というある種の好奇心が生じてきました。
ダスキン研修生として来日
日本研修中に行った発表
- そして2001年、私はダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業(以下、ダスキン研修)の研修を得ることができました。この研修が私の人生を変えました。私の人生だけでなく、みんなの人生をです。パキスタンの大勢の人生が変わりました。パキスタンの障害者運動の転換期です。なぜなら、日本の自立生活センター、つまりヒューマンケア協会、メインストリーム協会、自立支援センターぱあとなぁ、自立生活夢宙センター、その他多くの自立生活センターが支援してくださり、私たちは自分たちが世界で一人ぼっちではないということを理解したからです。地域のすべての人がその人に適した生活、あたりまえの暮らしを手に入れるという共通の課題を抱えていることを理解したからです。ダスキン研修は「ユニバーサル」ということについて考えるきっかけを与えてくれました。異なる文化、異なる生活様式、異なる肌の色、異なる味の好み、異なる感情、異なる文化、異なる信仰、異なる経済的背景、その他たくさんの数多くの違いから生み出されたのは、世界共通の、ユニバーサルな障害者差別です。これがユニバーサル(世界共通の)障害者運動の原点です。私は同期生や指導者たちから学びました。メンターの奥平真砂子さん、廉田俊二さんや中西正司さんという指導者、友人の佐藤さん。自分の道を見つけるためにはもっと多角的に考え、違うやり方で考えることを教えてくれた友人たちの名前をあげたら、膨大なリストになるでしょう。ダスキン研修のおかげで、私は自分の道を見つけることができました。それには何年もかかりました。メンターの奥平真砂子さんの言葉をいつも覚えています。「シャフィク、自分自身でありなさい」と奥平さんは言いました。「自分自身である」とは生きる技、生きる秘訣です。自分のことを好きになり始めたら、自分に責任をもつようになる。仕事や使命や理念に責任をもつようになる。変化を生み出し、変えていくことができる。これがパキスタンでの私の仕事、私の団体の原点です。マイルストーン障害者協会の設立は、日本のリーダーシップ研修が終了した時点での最初の一歩でした。私は日本の自立生活センター、とりわけメインストリーム協会とよい関係を築いていました。メインストリーム協会は今も昔も支援してくれています。長年にわたる親交です。更には、自立支援センターぱあとなぁや自立生活夢宙センターが支援してくれました。パキスタンの障害者を日本に招き、日本の自立生活センターに滞在させてくれました。日本に行って、日本の社会や文化や制度から学ぶよう、パキスタンの友人をたくさん紹介しました。日本から帰国した時、私には夢がありましたが、それを理解できる人はいませんでした。言葉で説明するのは難しく、私は機会を分かち合うことにしました。「よし行け、外に出て、そして外国から学んで来い」と仲間に機会を提供しました。その時、彼らも夢をもちました。私たちは今、この国を変えるという共通の夢をもっています。以上、簡単にではありますが、日本で学んだことやダスキン研修のパキスタンへの影響についてお話しさせていただきました。現在、私たちは素晴らしい状況にあります。自分たちの成果を広めようと熱心に取り組んでいます。例えば、活発に活動している自立生活センター、障害当事者団体のような組織が65か所以上あります。これは簡単に達成できたわけではありません。長い道のりでした。パキスタンの仲間たちと資源や機会を分かち合ってきました。日本にはたくさんのプログラムがあり、変化の担い手たちに日本社会や他国から学ぶ機会を提供してくれています。日本障害者リハビリテーション協会(JSRPD)と日本財団は、日本で学んだ、国際協力機構(JICA)の研修員とダスキン研修の卒業生を繋ぐネットワークの構築を検討し、パキスタンでフォーラムを開催するという構想が生まれました。フォーラムのタイトルは「アジア太平洋障害者連携フォーラム2019 inパキスタン」で、その目的は「チャリティーから投資へ」という発想を障害者に紹介することでした。とても素晴らしいテーマです。これが世界中の障害者運動の転機となりました。一般的には障害者はチャリティーを探し求め、経済的な恩恵を望んでいます。経済活動を生み出してはいません。実質的なビジネスを生み出してはいません。例えば、政府が障害者に技術研修を行い、何らかの製品を作ったとします。施設の土産物のようなちょっとした物で、売れるような物ではありません。本当の市場を理解していないからです。施設は障害者が作った物を人々に買わせますが、人々はチャリティーとして買うのであって、購入するメリットがあるから買うのではありません。このフォーラムで、少なくともサービス業界において、経済を反映する実践的なソーシャルビジネスを行う方法について議論されたことは画期的でした。例えば、パキスタンには技術研修や職業訓練を行う施設はたくさんあります。寄付してくれる人が施設を訪問した際のお土産になるような、衣服やビーズ製品のようなちょっとした物を作っています。その人は多額の寄付をし、施設からお礼を表すシンボルとして小さなお土産を手に入れるでしょう。ですが障害者たちは何を手に入れるでしょうか。障害者は立派な建物の中で座り、同じ境遇の仲間と慰め合う機会を得ているだけです。黄金の檻のような制度の中に閉じ込められ、まるで人間動物園です。このような表現をして大変申し訳ありませんが、私には正にそのように感じられるのです。障害者は人間のクズで、大きなゴミ箱に入れられ、役立たずの人間だから施設でシンボルとしての経済活動だけを行えばいい、としか思えません。ですから2019年にパキスタンで開催されたフォーラムは画期的だったのです。「よし、実際の市場について考えよう、毎日使うような製品を考えよう、本当のビジネスについて考えよう、Eコマースを活用しよう、オンラインで商品を売ったり買ったり、オンラインショッピングを活用しよう」といった、非常に数多くの事例がフォーラムで話し合われました。
パキスタンフォーラム参加者
- フォーラムについてごく一部ですがご紹介したいと思います。国や文化やアプローチが異なるたくさんの派遣団が参加しました。日本大使館大使、ダスキン愛の輪基金理事長の山村輝治様、日本財団の笹川陽平様から録画ビデオによるご祝辞をいただきました。そしてJICAパキスタン事務所次長の尾上能久様にもご挨拶をいただきました。パキスタンからは、アクワット基金のアムジャド・サキブ博士がご出席されました。この基金は小規模事業を始めるための小規模融資を提供しています。在パキスタン日本国大使館より松田邦紀様のご協力をいただきました。そして、パキスタン最大の州であるパンジャブ州のチョードリー・サルワル知事のご参列をいただきました。松田様にはたくさんのご協力をいただきました。フォーラムの準備にあたり政府のお役人の方々をご紹介していただきました。日本大使館からは多大なご支援をいただき、松田様に心より感謝しております。パキスタンやアジア太平洋の各地より大勢の関係者が参加しました。リーダーたちの声が取り上げられました。それぞれの地域の社会開発における活動経験や直面している問題について討論されました。このような事すべてがフォーラムで討論されました。文化交流プログラムも催されました。素晴らしい経験でした。パキスタンで開催された中でも優れた内容で絶大な効果がありました。今までで最高のフォーラムの一つとなり、非常に満足しています。パートナー組織や支援者の方のご感想はどうだったでしょうか。日本障害者リハビリテーション協会の光岡様には特に感謝しています。行動力があり有能な日本の若手リーダーです。このフォーラムを準備する際の数多くの書類やロジスティクス面(一連の開催準備の手配など)で支えてくれました。
マイルストーン障害者協会にて
- フォーラムの効果、つまりフォーラム後に何が起こったかについてはまだ分かりません。フォーラムの直後、世界中が新型コロナウイルス(以下、コロナ)に直面しました。世界中の文化、伝統、あらゆる運動がガラリと変わりました。例えばコロナ以前はインクルージョンのために闘っていました。人と関わるために、社会の一部であるために、自宅から出るために、施設から出るために、移動支援機器を手に入れるために、人々とつながるために。それなのにコロナによって話がすべて変わりました。今、私たちは人と会わずに自宅で過ごさなければなりません。マスクで顔を覆わなければなりません。介助者を使いながらも自分の身を守らなければなりません。距離をとらなければなりません。再び孤立の中でどうやって安全を確保できるでしょうか。まったくの災難です。ですが、災難は大きなチャンスでもあります。この災難によって人々を啓蒙(けいもう)する機会が生まれました。一生を隔離されているとしたら、どう感じるか考えてみてください。たったの15日間ではなく、障害者は一生を自宅で過ごすのです。犯罪をしてないのに自宅監禁させられ、宗教上の罪もないのに監禁させられているのです。何も悪いことはしていないのに、社会や文化は私たちを施設という名の大きな箱や家に閉じ込めます。私たちにとって挑戦すべき課題は2つだけでした。1つは移動の必要性、もう1つはコミュニケーションの必要性、それだけです。課題はこの2つだけです。これは社会や人がお互いにできることです。障害者を支援する方法、取り組む方法、提供する方法はいくらでもあります。課題はたったの2つなのです。フォーラム直後にコロナに見舞われましたが、考える機会になりました。テクノロジーを活用し、ソーシャルメディアを使ってアドボカシーを行う機会を得ました。まさに今、私たちはテクノロジーを使って、このフォーラムでお互いに話し合っています。
- パキスタンでのフォーラムの後に何が起こったかと言えば、新しい形の障害者運動が始まりました。ソーシャルビジネスを導入し、例えば、私たちは車いすや白杖や歩行器などの移動支援機器といった用具を、より効率的に製造し始めました。コミュニティと分かち合うために、本物のビジネスを生み出すために。この事業を始める前に、日本のメンターや指導者と話し合いました。ビジネスだけに人生を捧げたくはないけれども、新しいタイプのビジネスが必要だったからです。それが、「他の人の生活を楽にするソーシャルビジネス」でした。これは私が理解した定義です。私の定義でソーシャルビジネスとは、他人の生活を楽にすることを生み出す事業を意味します。みんながウィンウィン(win-win)の感覚です。お客様とサービス提供者の双方に利益がある、みんなに利益がある、それがソーシャルビジネスです。私たちはビジネスをしてお金儲けをする必要はありません。何度も言いますが、私たちはお金目的で働く必要はありません。ですが、活動のためにお金は必要です。その資金源は誰もがアクセスできるような形で作り出さなければなりません。それがソーシャルビジネスなのです。
- 廉田俊二さんの承諾を得て、奥平真砂子さんのご支援をいただき、パキスタンで車いすの製造を始めました。今、私たちはパキスタンで最高の車いす製造者の1つです。いくつかの資金源を確保し、その資源を地域と分かち合っています。例えば、裕福な人々からお金をいただきます。その多額の資金は車いすという形になり、子どもたちに渡ります。子どもたちは楽しい幼少期を過ごすことができるでしょう。これが私たちの理念です。身体的に異なる人々に提供するということ。違いに良いも悪いもありません、違いは違いです。違うということは美しいことです。「赤ん坊が生まれて最初の息を吸うその時から移動支援機器を提供したい」、これが私たちの理念であり使命です。生まれながら腕が弱い子どもを抱きかかえる母親たちの姿が想像できます。自分の子どもを抱えています。とても心が痛みます。私の母が一週間ばかり前に他界しました。私は母を失いました。ですが、新しい活力を得ました。母親たちを助けなければなりません。障害のある子どもに支援機器を提供しなければなりません。8歳や10歳になる子どもを母親が抱きかかえる必要はありません。体重が重い子どもです。重労働です。とても痛ましいことです。これが私の理念です。私たちの活動は様々なフォーラムで認められてきました。例えば、ボイス・オブ・アメリカはドキュメンタリーを制作し、世界中で何百人という人がこれを目にしました。このドキュメンタリーはみなさまにもお見せできます。
- さて、フォーラムの結果、このような進展がありましたことをご理解いただけたと思います。その上でとても重要な質問があります。みなさまにぜひお尋ねしたい。明確に区別する方法をご指導いただきたい、ご教授いただきたい。世界的な調査研究を行う必要があります。それは、つまり、たくさんの自立生活センター、施設、その他多くの団体や組織、これらはソーシャルビジネスと呼べますか。例えば、介助者サービスはソーシャルビジネスでしょうか。ピアカウンセリングサービスはソーシャルビジネスでしょうか。私たちが行っている訪問支援プログラムはソーシャルビジネスでしょうか。大きな疑問です。考える必要があります。もっと広い視野で考えれば、おそらくもっと多くの疑問が見つかるでしょう。ソーシャルビジネスは世界的にも新しい概念です。弱い立場にあるユニバーサルなコミュニティの人々がリードし、持続可能な方法で自立する。ソーシャルビジネスがカギとなり持続可能な経済発展という扉を世界に開くことができます。貧困と闘うことができます。障害者は納税者となり経済に貢献できます。大勢の人が世界の経済活動に参入することができるでしょう。より大きな視野で考えることがとても大切です。調査する必要があります。研究する必要があります。一緒に考えましょう、新時代を手に入れるために。一緒に夢を叶えましょう、新しい現実を築くために。自分たちの夢をあきらめない。ありがとうございました。
- 司会/シャフィックさん、ありがとうございました。それではこれより質疑応答を行います。
- 質問A/マイルストーン障害者協会の今の従業員数、その中で障害者職員は何名ですか。
- シャフィック/マイルストーン障害者協会では現在37名の従業員がいます。プロジェクトは2つあり、1つは独創的なプロジェクトで、自立生活センターがあり、そこには21人が働いています。残りの16人はテクニカルスタッフで、別のプロジェクトである電動車椅子製作のスタッフです。
- 質問B/マイルストーン障害者協会の平均給与はいくらですか。団体の収益額など教えてください。
- シャフィック/パキスタン国内の平均給与、政府の発表では2万2000ルピーです。およそ、1万5000円相当になります。しかしマイルストーン障害者協会では、日本円にして5万円の給料を出しています。7万5000ルピーです。新人の方は3万円ぐらいです。それでも平均給与の2倍ぐらいになります。
- 質問C/団体年間事業予算の規模はどのくらいですか。
- シャフィック/現在2000万円ぐらいです。パキスタンでは車いすを中国から輸入しています。約60億ルピー、日本円で年間40億円になり、これだけ中国から車いすを買っています。ローカルマーケットにこれだけを使うというものです。パキスタンで向こう6年の予定で、すでに3年が経過しています。
- 質問D/車いすを製作する技術習得は、日本でやりましたか。
- シャフィック/我々は、日本の技術も導入し、気持ちを大切にする「志」も導入しようとしました。どう製品をよくするか、技術だけでなく、製品がもたらす感覚も日本から学びました。
- 司会/シャフィックさん、ありがとうございました。時間となりましたので、シャフィックさんからの発表を終わります。
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